歴史


本校の概要・校名の由来

 校区の歴史は古く、江戸時代には田辺藩3万5000石の城下町として栄えた。
 本校の歴史は、天明年間、田辺藩第6代当主・牧野宣成創設による「明倫齋」にさかのぼる。その後、文久年間には、学舎を改築し、「明倫館」と改称された。安政年間には、それまでの漢学に加え、洋学・医学・算術・書・習礼が取り入れられたことや、百余名が学んでいたことが記録されている。
 明治5年の学制発布に伴い、「明倫館」の土地と建物を引き継ぎ、庶民の学校として誕生したのが、「明倫小学校」である。明治6年4月13日のことであった。
 「明倫」とは、「人倫を明らかにする」ということを意味する。すなわち、「人の守るべき道義を明らかにする」という意味である。


明倫館の創設
 天明年間(1781~1788)には、すでに田辺藩の学問所「明倫齋」が創設されていたことが記録に残っている。「明倫齋」が創立された年月は明らかではないが、第3代藩主・牧野英成のとき、河村久八、杉本剛齋の二人が学事を担当し、学問所を開設したのが田辺藩文教の始まりだと言われている。
 その後、文久年間(1861~1863)、第9代藩主・誠成のとき、学舎を改築して「明倫館」と名付けた。
 現在の校舎は、昭和56年から2年間をかけて全面改築されたが、正門は「明倫館」当時のものを移築したもので、昔ながらの面影を今に伝えている。